基隆港要塞的2顆大眼睛:社寮電燈所與木山電燈所
本文發表於 2009 年 05 月 01 日 13:1320090413應好友黃智偉兄之邀,前往做田野調查,包括廢棄龜山發電所裸露虹吸管、龜山發電所建築、小粗坑發電所建築、北部火力發電所建築、社寮電燈所與木山電燈所,真是大開眼界。
《台灣日日新報》有關「基隆」與「砲台」之報導摘錄前幾則要聞如下:1. 1897-04-27『砲台視察』山根大佐,長藤少佐,副官中山大尉,通信部長等參加。2. 1897-04-30『工事完成』社寮島砲台修築工事與八尺門渡場。3. 1898-01-30『基隆砲台發火演習』。4. 1899-03-04『基隆澎湖島砲台建築』。5. 1899-03-05『砲台需費』基隆與澎湖島。6. 1899-03-05『巡視砲台』基隆及澎湖島建築砲台,石本少將、原口第一旅團長、西垣海軍參謀副官、鯉登陸軍幕僚參謀、若身第一旅團參謀、牧野中尉、橫澤秘書官、中山參事官。7. 1899-09-16『社寮島砲台建築』
8. 1900-02-27『兒玉總督の砲台巡視』橫澤秘書官與後藤民政長官陪同。9. 1900-10-17『基隆要塞砲台砲兵大隊長上島少佐』。10. 1901-05-05『基隆堡木山砲台工夫』。11. 1901-08-22『基隆碇泊中佛艦の動作』佛國人墓地修補與砲台工事。12. 1902-01-05『基隆砲台建築工事』東京灣防備工事。13. 1903-03-07『谷田參謀長基隆砲台視察』。14. 1903-07-22『基隆白米砲台大砲射擊』。15. 1904-04-29『基隆砲台の空砲射擊』。
這是電燈室 上面圓形洞是電線進入口
由於「砲台」屬軍極密的範圍內,新聞通常不會很詳細,但上述就足以推翻可以找到的紙本或網路上的報導。讓版主有機會從技術史的角度下手,展現不一樣的台灣「砲台」史的書寫。
基隆港口之基隆峠
根據《台湾所在重砲兵聯隊史》(簡稱《隊史》),18960309台灣守備混成旅編制中與「基隆」、「砲台」有關的是「台灣臨時要塞砲兵隊」,砲兵隊下有3中隊,裝備火砲9糎臼砲。(12頁)同年7月改制「基隆要塞砲兵大隊」,2中隊。189810「基隆要塞砲兵大隊」,2中隊。190311「基隆要塞砲兵大隊」,4中隊。190707「基隆要塞司令部」、「基隆要塞砲兵大隊」。190705基隆要塞增後備步兵一大隊、工兵一小隊、補助輸卒隊。190710「基隆重砲兵大隊」2中隊。
臨時基隆堡壘團守備要塞砲兵隊(18950905~18960401)社寮島砲台配置阿姆斯特丹式(Armstrong gun )12吋1台、10吋2台、8吋2台;射程:8吋8km、10吋10km、12吋10km。9糎臼砲2台。這是接收清國基隆要塞砲台守備的結果。
基隆要塞砲兵大隊在日露戰爭期間之動員令執行情形:19041116下令動員,「要塞司令部通信、電燈要員增強」(61頁)。請問「電燈要員」是要幹什麼?1904年龜山發電所尚未發電,那來「電」以點燈?除非在砲台內設置「電燈所」,才需「增強電燈要員」。網路上有発電所・電灯所 ~ 夜間の敵艦捕捉用。版主學習三田裕次樣的作法,在守備範圍內玩就好。「社寮電燈所」與「木山電燈所」就成我的守備範圍。「社寮電燈所」在「社寮東砲台」內,以寫真來證明是一「發電所」。
木山電燈所的入口現狀頭頂有台電高壓
「木山電燈所」位在「協和火力發電廠」的圍牆,一小部分露在圍牆外。比較「社寮電燈所」與「木山電燈所」,可以看到如此相似,如果大家再比對龜山發電所,會發現有很多地方雷同,特別是窗子開口的細部收頭。電燈所的裝容量與電燈的亮度至少要照到10km距離,這都是技術內容,但沒有這方面資料。
1930年以後開始安裝高射砲,同時就有高射砲的探照燈用來夜間捕捉敵機用。有探照燈收納庫、探照燈移動軌道、探照燈移動軌道終止。詳寫真。
進入日本的要塞網頁來看基隆要塞的「社寮電燈所」與「木山電燈所」的對照版,並且做比較。
広島湾要塞のページ ,那裡面有2個「豪頭鼻電燈所」(竣功図書進達の件明治32年 「軍事機密大日記 4/4」【 レファレンスコード 】 C02030233400 【 画像数 】 8>豪頭鼻電燈所交通路竣工)「休石電灯所」(広島港要塞地域内陸軍用地管理換に関する件(2)>岸根砲台、豪頭鼻電燈所、鶴原山砲台、三高山保塁、早瀬保塁、高烏保塁(22p)、休石砲台、休石電燈所、大空山保塁、阿賀砲台予定地、等の位置図面。地形図位置図面)進行寫真的比較。
槓子寮砲台跡は基隆市の信義区と中正区の境にあります。…ほかに照明所や「電灯所」、「発電自動車倉庫」があります。
豊予要塞 佐田岬地区の砲台群佐田岬電灯所
鷹ノ巣高砲台鷹ノ巣電燈所(明治31年起工し明治33年3月に竣工。)
函館要塞要塞関連施設(その他)発電所・電灯所 ~ 夜間の敵艦捕捉用。穴澗発電所(穴澗岬上)、穴澗電灯所(穴澗岬先端部)、立待発電所(鶯谷)、立待電灯所(鞍掛山頂)
すぐ近くにある第二砲台ととに中迂半島一帯を防御するための沿岸要塞の一部であったと考えられる。
第一砲台跡には電灯所、棲息掩蔽部、地下弾薬庫を備えた砲台が現存する。 旧軍が武装解除、解体されて以後、完全に放置されていたらしく、荒廃がもっとも激しい廃墟である。具体的には棲息掩蔽部丁が完全に土砂に埋没し、地下道の一部が崩落、南側砲台から南側砲台長位置へと至る通路は崖もろとも崩落している。砲台上部にも何かの施設があったようだが、今は瓦礫しか残っていない。 荒廃が激しいものの、電灯設備が生きており、地下道の照明が使用可能。 地下の武器庫乙が何者かにより入り口を封じられている。
參考資料:台湾所在重砲兵聯隊史編纂委員会《台湾所在重砲兵聯隊史》 1999.2 。這本書南港研究院正在購買中。
感謝黃智偉兄讓我開眼界,也借《台湾所在重砲兵聯隊史》這書讓我多少摸到另外一種発電所・電灯所,知道発電所的領域還有很多未開墾地可以耕作。
龜山第一水力發電
請使用臺灣日日新報資料庫 漢珍/YUMANI 清晰電子版有 關鍵字檢索,是研究者的最佳利器。
2009-05-01, 4:59 下午
地圖取自《二級古蹟大武崙砲臺調查研究暨考古試掘計劃》 曾文吉計畫主持 曾國恩,陳仲玉,楊蔚協同主持 2003 。剛才費很大工夫, 但電腦不讓我寫這條, 沒寫會涉及侵權行為, 而且寫真也不讓我貼, 現在應該可以吧!!!
2009-05-01, 6:13 下午
基隆築港圖(1900-1913),1916年出版
http://richter.pixnet.net/blog/post/23642935
(每張地圖點下去、再點都可以放大)
2009-05-04, 1:06 下午
日本の探照灯(Japanese Search Light)http://www17.big.or.jp/~father/aab/kikirui/searchlight.html
一般的な探照灯の発光は、アーク放電によるものである。このアーク放電というのは、狭い間隔をおいた2つの電極に電圧(直流)をかけると放電し、極めて高温になり激しい光を出すというものである。陽電極をその温度で燃焼する素材にして電極の間隔を一定に保つように移動させてやるとアーク(弧光)放電が持続し、発生した光を凹面鏡に反射させて平行な光束にし、目標を照射するのである。同じアーク放電を利用したものに電気溶接がある。
より明るい光を出すには、放電時に流れる電流を大きくしてやれば良いのだが、いろいろと難しい面があるそうである。日本の探照灯は高いアンペア数と高い照度を誇っていたらしいのだが、それもレーダーの登場と共に意味の無いものになってしまった。
探照灯を運用するには、探照灯本体以外にも以下のような装備が必要であった。
(1)直流発電機
アークの生成には直流電源が必要である。しかし例え近くに電源があったとしても一般には交流電源しかなかったので、直流発電機が不可欠であった。
普通は直流発電機に交流モーターが直結されており、交流電源が確保可能な場合にはそれで交流モーターを回し、電源が無い場合には別途交流発電機(ディーゼルエンジンやガソリンエンジンに交流発電機が直結)を用意して交流電源とした。また車載型の探照灯では、トラックのエンジンで直接に直流発電機を回していたようである。
(2)管制器
探照灯で探知する目標は遠距離にあるために望遠鏡で確認しなければならないが、望遠鏡を覗きながら探照灯の向きを指示するのは難しく、その為にリモコン装置付きの双眼鏡で探照灯の遠隔操作を行う管制器が開発された。探照灯の光芒が入ると見えにくくなってしまうので、探照灯から少し離れた場所に設置されて使用した。
(3)聴音機
適当に照射を行って目標を捕らえるのはあまりに効率が悪い為、目標の発する音から目標の位置を探知する聴音機が開発された。詳しくは聴音機のページで説明するが、聴音機単独では射撃に必要な測定精度はとても出せなかったので、聴音機で測定した目標の位置情報を基にして探照灯を指向して照射し、光学機器で再度測定を行う必要があった。しかしそれでも何も無いよりは効率が良く、航空機の速度も遅くレーダーも装備されていなかった第二次世界大戦初頭まで各国で使用された。
また聴音機で測定した位置情報で直接探照灯を駆動するシステムもあった。レーダーが開発されると聴音機に取って代わり、レーダーで駆動する探照灯が開発されたりもしたが、すぐにレーダーの探知性能が向上して探照灯そのものが必要なくなってしまった。
(4)トラック
野戦用の探照灯は、必要な器材を全てトラックやトレーラーに搭載可能なように作られていた。固定式の防空陣地でも配置転換が頻繁に行われていた為に車載式探照灯が重宝されたが、トラックの台数を確保できなかったのであまり数は造られなかった。
(5)その他
他に連絡用の通信機等も必要であったらしい。
国産メーカーとしては、富士電機と東京計器(現トキメック)、島津製作所等があったらしいが、島津製作所の社史には作っていたとしか書かれておらず、詳細は不明。
2010-04-11, 11:30 下午
版主您好,
我對基隆的砲台及附屬建築物很有興趣, 看了您的許多文章真是令我大開眼界.
請問,
1. 木山電燈所要如何去?
2. 其中有一張衛哨所的照片及最後一張照片是木山電燈所嗎?
2010-04-12, 8:48 上午
這是砲台達人黃智偉兄的範圍, 他帶我去開眼界的!!
這頁寫真從最底下往上算只有第一, 第4,5, 8是木山電燈所!!
如何去木山電燈所?從台電協和發電廠大門旁邊小巷往上爬, 會遇到台電圍牆!!
在輸電線路下方的圍牆就是!!有這樣資訊應該可以找到!!
因頭開刀沒有辦法記住那巷子號碼!!萬一還找不到可以發email給我!!
電廠大門旁邊小巷可能是第2條???
2010-04-25, 9:40 下午
感謝版主
我今天找到了, 在文化路108巷底, 其2/3建築物改為民宅. 我看了您的文章後, 又看到日本國立公文圖書館的電子檔[木山電燈監守衛舎に救急箱備付られ度件] http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090103312079831& , 發現裡面有一張圖示說明木山電燈是在白米甕砲台及木山砲台之間. 再對應您文章內的分析及相對位置的實地走訪. 又讓我有更深一層的認識.
日本國立公文圖書館亞洲歷史資料 http://www.jacar.go.jp/ ,用繁體中文就可以找到很多日治時期的資料.
2010-04-26, 7:06 上午
Magicさん
進入亞洲歷史資料網看[木山電燈監守衛舎に救急箱備付られ度件]
哇,你是達人級玩家,不是學院內的人。「木山電燈監守衛舎」讓我有文獻支撐我的猜測,
寫「木山電燈所」其實是很心虛的,沒有看到「木山電燈」這4字的文獻前,
都只能算猜測啦。謝謝。
亞洲歷史資料網 http://www.jacar.go.jp/ 是所有想知道台灣史的朋友之寶庫,它包括國立公文書館、外交史料館文書、防衛廳研究所文書3部門檔案,幾乎很多台灣史資料在此都有一手的史料。曾經在小林英夫教授嚮導下去參拜外交史料館的大神:長岡新治郎さま。長岡さま是外交史料館編纂委員會顧問,台北帝國大學文政學部畢業。在外交史料館入口,每個人都向他鞠躬,有些人面呈論文請他指導。在長岡さま指導下,我調閱沒有人使用滿是灰塵的「セメント」史料,發現只在外交史料館就能寫一篇精彩的「セメント」科技史論文。
「木山電燈所」在文化路108巷底,這是很重要資訊,讓大家可以自己前往,而開始認識台灣。台灣史由於欠缺研究,需要我們大家以螞蟻雄兵的方式啃食文獻資料,然後公布在網上,讓想研究的朋友接下去。
因為忙於範圍內,無法去挖掘,拋下問題:「滿清帝國拋棄台灣時,日本有詳細接收資料,請問基隆方面的砲台接收細目是否存在?有沒有電燈所?」
2010-04-26, 7:41 上午
沒錯!
亞洲歷史資料網 http://www.jacar.go.jp/ 是所有想知道台灣史的朋友之寶庫,它包括國立公文書館、外交史料館文書、防衛廳研究所文書3部門檔案,幾乎很多台灣史資料在此都有一手的史料。
日本國立公文圖書館亞洲歷史資料 http://www.jacar.go.jp/ ,用繁體中文就可以找到很多日治時期的資料.
key-in”六燃”有41件
2010-04-27, 5:51 下午
回覆版主,
從亞洲歷史資料的一份[竣功図書] http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006083118224459854& 可知木山電燈完成於明治37年3月2日, 我判斷應該是輔助白米甕砲台及木山砲台的夜間防禦用. 從另一份 [台湾総督府より 澎湖島砲台に係る報告書の件台湾総督府より 澎湖島砲台に係る報告書の件] http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090107385269080& 可知明治28年9月21日當時台灣全島各砲台的狀況 (其中並沒有電燈紀錄. 另外我想去申請國防部永久(史政)檔案的[臺灣警備總司令部軍事接收總報告]把所有基隆的砲台圖調出來看. 我想裡面應該有木山社寮電燈的圖.
從中央圖書館台灣分館的台灣文獻整合查詢系統的日治時期台灣地圖資料庫 http://192.192.13.178/gfb3/index-tc.html
[日本 臺灣北岸-基隆港] http://192.192.13.178/cgi-bin/gfb3/graph.cgi?ccd=_Wh9NB&o=v1-37 這張圖有畫出現今的二沙灣砲台及社寮砲台 (但沒有其他砲台位置)
另外這張[發送變電設備並供給區域圖] http://192.192.13.178/cgi-bin/gfb3/graph.cgi?ccd=_Wh9NB&o=v1-35 可能你會有興趣.
您提到的「セメント」也是我心中對砲台的一個大問號, 我覺得當初所使用的水泥應該與今日不同.
2010-04-27, 6:41 下午
>>>也是我心中對砲台的一個大問號, 我覺得當初所使用的水泥應該與今日不同.
1824年水泥給專利以後, 大約1870年代水泥技術已經成熟, 知道要燃燒均勻研磨較細的水泥最佳!!因此, 砲台所使用水泥是與現代差異不大!!!有一考古學家發現使用天然水泥的歷史已有幾千年, 他提出一抬槓問題, 為什麼現代混凝土沒有古代混凝土耐久!!或者說, 古代混凝土與現代混凝土有何差異!!
這篇文章1987年12月的International Concrete刊登Florida州Barry大學應用考古科學系主任Dr.Joseph Davidovits的一篇文章「Ancient and Modern Concretes:What Is the Real Difference?」,這是美國混凝土協會(ACI)的機關誌之一,ACI三本期刊中,此期刊學術味道略弱。ACI是美國霸權所呈現混凝土知識機構,其出版品權威十足。Davidovits對9000年來各種concrete考察,提出為何2000年前的比1824年以後有較佳耐久性?他指出現代混凝土的壽命有的沒超過50年就開始退化,特別是修復埃及古蹟時,新混凝土竟然比舊混凝土更不耐久。他從化學成分比較出雙方的不同,從而得到耐久混凝土的膠結材料化學成分。除了參考上述文章外,可讀他的著作《The Pyramids:An Enigma Solved》。
我遇到史料使用的高手, 你對數位典藏史料之搜尋非常厲害!!你的教授應該還不會使用上述資料!!
2011-06-25, 11:33 下午
您好版主~可以請教您在哪可以找到 「臺灣所在重砲兵聯隊史」一書呢??謝謝哦!
2011-06-26, 9:25 上午
台湾所在重砲兵聯隊史編纂委員会編. 刊,『台湾所在重砲兵聯隊史』,1999 年。
在台大metacat查
臺灣所在重砲兵聯隊史
中央研究院
在台灣最少有1本,我相信有2本以上!
我有的是那砲台達人給我的部分資料!
2011-10-07, 9:48 上午
為了明天10點在基隆海科館的演講,在準備powerpoint時,發現以前在網路上的寫真,現在都無法超連結,只好再找。終於找到精彩影像與文字,要感謝那位日本網友。
手向山砲台電灯所 http://allxa.web.fc2.com/archi/isan/senseki/shimonoseki/tamukeyama.html
福岡県北九州市小倉北区赤坂
竣工:1891年
レンガ造の発電所は探照灯に電力を供給するためのもので、明治時代は電灯機関舎と呼んでいた。内部には汽罐室(ボイラー室)や発電機室などがある。エネルギー源は石炭だ。
2011-10-08, 3:56 下午
今天10點在基隆海科館的演講,海科館籌備處主任柯永澤致詞,旁邊是施彤煒博士。
我的寫真。
炮台達人張兄也是海科館的志工。謝謝張兄拍攝寫真,上面Magic就是他。
2011-10-09, 10:08 上午
炮台達人張兄送我一本《市定古蹟白米甕砲台》,在裡面50頁有一張圖片上面有「木山電燈」,特別秀出來,讓資料可以分享。也期望基隆朋友能努力挖掘史料,讓大家分享成果。
2012-06-24, 7:49 下午
版主~ 今天我去探訪獅球嶺砲台~ 在平安宮後方有疑似電燈所,還有個和社寮電燈所一樣的探照燈室和探照燈座,不知道是否有資料可以查詢?!
2014-02-05, 5:40 下午
我是基隆人,對基隆的軍事遺跡很有興趣,從一些史料得知日本在內木山上有興建砲台,其中木山砲台在現在文明路山上的營區內,不知道有沒有什麼資料可以讓我更了解這個砲台的歷史跟配置?是否跟槓子寮砲台是一樣的樣式?因為日本在澎湖建的要塞砲台跟槓子寮砲台以及深澳坑砲台的樣式都非常類似
2014-02-08, 1:39 下午
基隆胖兄
這類軍事領域要發時間去找史料,我沒有研究。
給你3個hint
1. アジア歴史資料センター 網
2. 國防部史政局檔案室
3. 台灣日日新報
2014-02-18, 2:05 下午
感謝,有時間我會去研究
2018-11-06, 6:36 下午
版主您好:
根據”台灣省軍事接收總報告”, 金山的八斗子及和平島的中山子亦設有探照燈庫和探照燈台
2021-05-18, 10:51 下午
I’m interested in the history of the Japanese coastal fortifications (specifically the ordinance at each fortification) during World War 2. I have some history on the Keelung, Takao and Penghu fortifications but I’m trying to understand what ordinance was installed in 1941 and how it was upgraded during the war. Is there a source that can provide this information. Note that I live in the USA and do not have access to libraries in Japan or Taiwan.