1942~1946ラバウル的台灣人軍屬廖來福樣的戰爭經驗

本文發表於 2008 年 09 月 05 日 09:30

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2個禮拜前與葉雪淳前輩見面,送給他2份DVDカラオケ,這是興達施工處邱重仁課長的勞作,也就是說他與朋友結緣的媒介,另一份要請他轉送給住在葫蘆墩(豐原)的廖來福樣,與葉前輩在台電大樓大廳聊一下,他說應該前往葫蘆墩去拜訪廖前輩並且作口述歷史,因他曾去納卯(Davao)(耳聽錯誤,其實是ラバウルRabaul )。葉雪淳與廖來福兩前輩都是因認識丸紅的三田裕次樣才開始聽到名字,最後,都認識這兩位戰前出生的才子,兩前輩都是自學電腦也都玩音樂有成,其成果讓後生晚輩汗顏且景仰。

new-guineas-map.png20080902早上我與許進發兄從國道客運總站出發,到達豐原後,吃了午餐,叫計程車往東陽路走,廖前輩的兒子看到2個陌生人,說他父親已在客廳等待,桌上放著一本日文《ラバウル海軍航空隊》,經過寒暄後,我們進入口述歷史訪談。以下是訪談內容:

廖來福樣,大正12年1月10日生(1923/01/10),豐原公學校卒業後,在木材行工作。雖然有考上中學,但因家境不允許,無法就學,只能買函授教材自修。

接到第六回臺灣労務奉公團召集令,当時の編制は人員1500人,毎州一中隊300人を三小隊に分け,一小隊を五分隊各分隊20人。團長一名,中隊長五名,小隊長十五名,以上陸軍嘱託,隊員は陸軍軍属。

第六回勞務奉公團的廖前輩是搭乘6400噸「帝龍丸」前往,這是密航(軍極密的出航),連船長都不知道目的地,船上只有押船軍官知道。從台中到高雄住1夜(或2夜),然後上船開往馬公,待機5天然後出港南下,在馬尼拉靠岸過2夜,前往ラバウル。船團有4艘船,並有二艘護衛艦艇隨行。他到ラバウル後,才開始接受訓練(包括軍事與如何求生)。 開始時負責卸下船貨,由於他自修過化學,所以被徵入「現地自活研究班」,參與研究工作,負責生產氧化劑,以製造硝酸鉀火藥。「現地自活研究班」的長官是多田技師(陸軍嘱託、佐官待遇)。先將火灰(台語,燃燒植物的殘灰)精製,造鹼。其次是燃燒蠔殼(蚵殼之另一寫法),生產生石灰(CaO)塩水を電解して塩酸と水酸化鈉を得て用以製造氧化剤の原料。在「現地自活研究班」1年是最舒服的日子,只要將長官交代的工作做完就好。它最接近的長官是來自四國地區的補充兵,看樣子是「學徒出陣」的樣板,還帶微積分的書來讀,顯然微積分比生命還重要。另有「林兼株式會社」設廠製氷以供医事之需,所以戰地不是只有台灣拓殖株式會社的人在活躍,還有不少的各式各樣株式會社在活躍。豐原林漢忠医師(陸軍嘱託)(豐原名人,在豐原名物雪花齋商店隔壁),替代軍医去菲律賓,去海南島回來的有潘某(廖前輩沒說全名)。

他是搭乘復員船「熊野丸」(原陸軍航空母艦,熊野丸,川崎汽船,戦時標準船M丙型として日立造船因島工場で1944.8/15起工45.1/28進水3/31竣工45.8/15敗戦時、宇品で残存46.6-47末神戸で解体され二重底部分を利用して浮船渠を建造し神戸で使用.)返台,從去到回來還算非常幸運。只有在ラバウル遭受到3次空襲,然而零戰零式戰鬥機群被殲滅後,轟炸就不再發生。有2次艦砲轟擊2小時,因ラバウル有2個活火山,在火山挖掘戰壕躲避轟炸與艦砲轟擊。

空襲は通常昼夜に二~三回,B17が偵察を兼ねての不定点爆撃であったが,昭和十八年八月中旬頃から毎日大規模な編隊で港湾、飛行場、物資糧食集積場等に絨毯式定点爆撃が連続されて損害は大きかった。

防禦の空中戦に戦闘機の損失大で補給が追付かない,トラック島が急を告げた時,残存ゼロ戦機約四十機が援護に赴いたまま未帰還で後空中戦が無くなった。空襲も逐次規模が縮小してきた。

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戰後,他曾經開食堂,因民不聊生,販賣走私香煙而引起228事變,為要消滅走私香煙而成立豐原煙廠籌備處,他因俱備化學知識,進入公賣局煙廠試驗室,負責品質管理與化驗工作。執行提高品質與降低成本的兩難任務。提高品質通常是會增加成本,所以在工廠把沒收的私煙與本土生產煙草混合,讓人沒有感覺品質差異的程度來出售。他的化學知識部分是買函授教材自修,部分來自「現地自活研究班」所學習而的。受美式教育的我們是無法理解的,但德式教育(日式教育源自德意志)卻是如此,知識非全部來自學堂,很多從工作中習得。這也就是為何戰後台灣人還能繼續接受新知而從事知識經濟之活動。在1980年以前的台灣情形,日語或日文是承載有之新知識的語文,而相對之下Chinese承載有之新知識就少得可憐。

玩電腦是從宏基8位元電腦開始,第一台電腦–宏基小教授8位元286電腦,沒有硬碟、是以大的軟碟(5.25)存取的,作業系統是basic。一路上依8位元、16位元、32位元、64位元個人電腦而自我學習(386、486、586)。

請問廖前輩為何那麼喜歡古賀正男(版主的最愛),那時沒有去ラバウル前在豐原玩吉他,當然就會將最流行的歌曲拿來演奏。與張邱冬松等熟識,1946年張邱作了台語歌曲〈收酒矸〉,請廖前輩去他家聽他演唱。戰後不只是白領階級,小老百姓的日子也不好過,台語歌曲〈收酒矸〉(1946,張邱冬松詞曲)「有酒矸,通賣無?」描寫一位出門撿破爛的十三歲小孩的心情,道盡社會在戰後回歸「祖國」的慘狀。張邱冬松「燒肉粽」(1949)〈詞曲:張邱冬松〉,也是相同,描寫回歸「祖國」必須4萬元換1元的慘狀。三田裕次(MITA_Yuji)Home Page 的古い記憶のメロデイ(版主的最愛)是廖前輩的傑作,希望網友多去拜訪。

以下是在廖前輩家所見網頁,供網友參閱

憂愁•MENU

《ラバウル海軍航空隊》 奥宮 正武【著】  学習研究社 (2001/03/22 出版) 553p
ISBN: 9784059010456

第1部 緒戦大勝の余勢をかって(昭和17年2月~7月)
第2部 ガダルカナル島の攻防戦(昭和17年8月~18年2月)
第3部 ニューギニアでも苦戦(昭和17年8月~18年2月)
第4部 二つの悲劇(昭和18年3月~4月)
第5部 ソロモン群島での攻防戦(昭和18年5月~10月)
第6部 ラバウルでの死闘(昭和18年11月~19年2月)
第7部 結び
付録 南東方面海軍航空作戦経過概要

感謝廖來福前輩接受訪問。感謝許進發兄幫忙口述訪談,他擁有豐富的二戰歷史知識,才能作此次口述訪談,同時補充文字及修改錯誤。如果還有錯誤,那是版主個人的缺失,煩請指正。

42 回應 針對 “1942~1946ラバウル的台灣人軍屬廖來福樣的戰爭經驗”

  1. 葉雪淳 寫道:

      
      
      
    >零戰戰鬥機
         
     正確名稱是「零式戰鬥機」(ゼロ戦)
     零(0)表示年代「皇紀2600年」(昭和15年)
     以戰鬥機而言,「零式戰鬥機」稱霸於太平洋一段時間
     
     又如「九七陸攻」(九七式陸上攻擊機)
     是「皇紀2597年」(昭和12年)的產物

     「一式陸攻」是「皇紀2601年」(昭和16年)的產物
       
      
     另外—— 
     山本五十六,巡視「ラバウル」後,飛「トラック島」途中
     被米機擊落
       
           
          
          

  2. 三田裕次@広島 寫道:

    広島自宅には参考文献がないので記憶に基づくコメント(順不同)。

    1.原則として(台湾籍)「軍人、軍属」と表記するのが妥当。当時「軍夫」が使用されていたのは承知しているが、昭和期の法令に基づく呼称ではない。

    2.台湾の軍属の場合は、徴用(通称:白紙徴用)、志願(事実上の強制を含め)。軍嘱託もいたと思うが、未確認。
    因みに「徴集」は現役兵に関する用語。ことほど左様に、実に複雑難解で、できるだけ簡単に表記した方が良い。
    <参考>
    簡単に言えば、軍属は軍と雇用関係にある。嘱託は「委託委任」で、不是雇用関係。

    3.帝国陸軍は「航空母艦」のほか、「潜水艇(輸送用)」も持っていた。戦争末期、フィリピンへの物資輸送の実例あり(台湾に寄港したかどうかは覚えていない)。なお、熊野丸は朝鮮からの引揚にも活躍?

    4.呉三連基金会「三田文庫」にラバウル関連書籍は十冊以上送っていると記憶。但し、「ラバウルに於ける台湾人軍属」が登場する場面はなかったように記憶。一方、興味深かったのは、中華民国軍の小部隊も派遣されており、日本軍捕虜に対して、親しく接してくれたとか(白人から馬鹿にされているためか?)。

  3. 三田裕次@広島 寫道:

    まだ訂正されていないようなので、何時ものお節介ながら。

    「まろやか」老のお名前は(「福来」ではなく)「来福」と了解していますが。

  4. 林炳炎 寫道:

    感謝三田裕次樣、葉雪淳前輩的指正,戰爭經驗對我而言是陌生領域,而且在做語言轉換時沒有意識到要小心處理。總共到目前為止,已改了5次,連我們的男主角名字都寫錯,實在有夠荒謬。如果還有錯誤,煩請再指正。

  5. 三田裕次@広島 寫道:

    >戰爭經驗對我而言是陌生領域

    我也一様的(戦後世代)。

    ただ、台湾史、特に昭和時代は日本史と重なるところ大であり、大量の本を読み、すこしずつ勉強した上で、読了後は呉三連台湾史料基金会「三田文庫」に送り、それを「孤軍奮闘」で紹介しているが(これにかける手間及び間接的費用も膨大)、誰も意地でも利用しようとしない(台湾人も日本人も、同基金会関係者でさえも)。一体、私はどうすれば良いのか?歴史研究者の最重要使命である「史実の探究」(私の信念)に他に良い方法があるのか?

    参考までに、母の葬儀関連も一段落ついたので、「法に遵った相続」をする為に連日自転車で金融機関巡りなどをしているほか、同基金会に対する書籍送付再開に向けて「助走」を開始、一日一冊平均の本にザット目を通している(床の上で仮寝をしながら)。万一利用者から問い合わせがあった場合、適切な助言ができるように(そんなことは有り得ないことは十分承知しているが、私の意地)。

  6. 三田裕次@広島 寫道:

    我内人@東京的コメント如下。

    QOT
    台電の林さんのサイト見ました。
    やり続ける事、言い続ける事は大事ですね。
    でもエネルギーがいるから、体に気をつけて続けて下さい。
    私も出来る事お手伝いします。(本の箱詰めくらいかな)

  7. 林炳炎 寫道:

    非常感謝三田裕次樣及夫人的鼓勵, 三田夫人的話語翻譯出來如下

    持続想作之事或持続想説之事是重要的。
    唯需要エネルギー体力的、故請留意身体、持続去作。

    真正體貼丁寧的話.
    台灣文化運動是持続想作之事, 需要体力的、要留意身体、持続去作.
    我想三田夫人的話不僅給我個人, 也是給所有關心台灣文化運動的朋友.

    在上面的口述中, 沒有寫廖來福樣講的非常重要話語是, 他邀請三田裕次樣及夫人來台灣霧社做longstay,
    將手上工作暫時拋棄, 不要電視,電話,電腦, 澈底拋棄俗世間, 做閒雲野鶴一個月.

    昨天, 台北科技大學老師鄭麗玲博士來台電大樓我的辦公室, 我們共同的話語是三田裕次樣, 我們都非常關心
    三田裕次樣的身體也非常欣賞他對台灣文化運動的貢獻. 期望他, 如果不想到台灣霧社做longstay, 可以去任何
    他想去的地方longstay.

  8. 三田裕次@広島 寫道:

    1.林桑、有点誤解、我内人的コメント是対我送的(Private Message)。我説明不十分、真パイセエ。

    2.目前我専心処理我家的事情、「長期戦」之覚悟、要パアピア。関於対外関係要進一歩之「戦線縮小」(日本方面&台湾方面)、但、呉三連基金会に対する書籍送付は近々再開の予定。

    <参考>
    呉三連台湾史料基金会に対する書籍送付

    三田裕次@広島
    再開すべく「助走」開始。東京で準備していたもの&広島で準備したもの併せて現時点で50冊以上はあると思う。

    当面(約半年間)は広島発送&東京発送「二本立て」、将来は広島発送のみとなる見込み。

    今のところかなりの未処理「在庫」があるが、それを処理した後は、「台湾関連書籍(寄贈)」&「三田文庫用書籍」はかなり減少する可能性大。広島では「安価な古書」の収穫量激減の為。

    ====
    なお、(戸外生活図書公司経由)台湾各地の大学や個人宛の書籍は6月発送分を以て「終」、現時点では再開の予定無し。広島で大量の書籍を収集するのは事実上不可能、更に「投資効率」も極めて悪いので。

  9. 三田裕次@広島 寫道:

    >ラバウル

    母が遺した本を読んでいたら、以下の如き記述あり。

    母は戦争末期、「腰掛け」で広島市郊外の海田市(かいたいち)にあった「需品廠」に居た(試験を受けて採用。動員ではない。当然女子挺身隊でもない。)人事課に配属され、「(白紙)徴用」関連の下働きもしていたらしい(本人も良くわかっていない)。

    QOT
    (広島陸軍需品支廠は)昭和20年3月末大阪陸軍軍需品支廠広島出張所に改組され、新たにラバウルから帰還した平沼主計中佐が所長として着任した。
    UNQOT
    1.初めて母の「勤務先」の正式名称が分かった。
    2.当時でもラバウルと内地の「人事交流」が行われていたことが分かった。尤も平沼主計中佐が何時頃内地に帰還したのか不明であるが。
    ====
    この様に、些細なことであっても、毎日毎日が「お勉強」。

    因みに、この本の著者山田幸一先生(已故)は当時神戸工業専門学校第一部建築科在学中(学徒動員)、戦後は左官工事の歴史の研究に没頭、「日本壁」の研究者として「学成」。

  10. 三田裕次@広島 寫道:

    本件に関連し、某台湾人&某日本人に送ったメッセージ。
    勿論反応無。

    QOT
    文中に引用されている「まろやか」老のお宅にある奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』も私が寄贈したもの。

    呉三連基金会「三田文庫」にも入れてあると思うが、未収蔵だったら送っても良い。ただ、送っても誰も見ようともしないこと必定。

    (日台双方の)研究者諸君の読書態度はかなり「深刻」な問題を抱えているのではないか?自分の「恣意」を基準として本を読んでいるように見受けられる。

    ラバウルのことを聞きに行くのであれば、ザットでも良いから、呉三連基金会「三田文庫」にかなり入れてある関連書籍に目を通して行くべきではないか。

  11. 鄭麗玲 寫道:

    我之前訪問一位住在樹林的蘇喜
    出去三次, 第一次是農業義勇隊到南京
    第二次是1941年12月珍珠港事件之後12月10日攻菲律賓
    之後1942年再度到ラバウル
    不知道廖先生是否也是這一年去的呢?
    因為我判斷蘇喜應該是第六回勞務奉公團台北州分隊
    他說是在1946年四月搭日本的輕型航空母艦回台
    ラバウル有戰犯審判, 有台灣人戰後在當地被依戰犯槍決
    我已經很久沒有做相關方面的口述
    不過, 訪問這些歐吉桑是我進行口述經驗中
    最生動的記憶

  12. 林炳炎 寫道:

    They live on the Volcano 狄卜賽此舢舨名「馬馬虎虎」,康妮的弟弟之舢舨名「沒有關係」,這2艘舢舨後來都由招商局運回底特律的大島。

    「馬馬虎虎」與「沒有關係」的文化,是台灣人根深柢固的惡習,改變不了。美國人狄卜賽家族對此應該感受深刻,所以才會把舢舨命名為「馬馬虎虎」與「沒有關係」。所以要「(日台双方の)研究者諸君の読書態度はかなり「深刻」な問題」,「深刻」對很多台灣人來講是困難的。再加上論文書寫期間是有限制的,我看到為了趕在deadline前交論文,這樣的情況是很普遍的。

  13. 黃美怡 寫道:

    林さん  
    我有看到你最先寫「軍夫」而不是「軍屬」,然後才改成「軍屬」。問我媽媽,她說:「我們這庄頭都說前往南洋做軍夫,沒人講軍屬」。我學習你的作法,去國家圖書館用電腦查大鐸《台灣日日新報》,在共款時間內查「軍夫」、「軍屬」,結果查出「軍屬」472條,「軍夫」350條。即款的結果,我也很為難,不知要聽誰的。

  14. 三田裕次@広島 寫道:

    >軍夫

    日本時代のことは原則として日本の用語を使用すべきである。

    当時「軍夫」が一般用語として使用されていたことは私も当然承知しているが、戦後の厚生省や靖国神社資料などは全て「軍人、軍属」となっている。王育徳先生が「生命を賭けて」取り組まれた「(戦没戦傷の)台湾の兵隊さん」補償関連も法的には「軍人、軍属」。

    呉三連基金会には各種軍事用語事典なども送っている。一度くらいはそれを見たらどうか。見た上での質問であれば、何時でも応じる(但、広島自宅には文献がなく、推定や記憶に基づく回答となるが)。

    私の推定であるが、戦後出版された「日本昭和史読み物」では、同基金会「三田文庫」は台湾随一ではないか。少なくとも日本の地方都市の図書館よりも充実していると自負している。

    >読書態度はかなり「深刻」な問題
    この点について、付言する。最近は馬鹿馬鹿しいから止めたが、病気回復後(2003年以降)、呉三連基金会に送る本は、事前にザット目を通し、間違いなどがあれば、著者(或出版社)にメモを送っていた。我的本頁「台湾史もぐらたたき」はそれを整理(一部脚色)したもの。所謂「武士の情け」で個人名は秘しているが、2003年以降送付の書籍の相当部分には当該メモを付けている(為読者服務)。

    とにかく本を読もうともしない人達といくら議論しても無駄(時間之浪費)。

  15. 三田裕次@広島 寫道:

    >軍夫

    日本時代のことは原則として日本の用語を使用すべきである。

    当時「軍夫」が一般用語として使用されていたことは私も当然承知しているが、戦後の厚生省や靖国神社資料などは全て「軍人、軍属」となっている。王育徳先生が「生命を賭けて」取り組まれた「(戦没戦傷の)台湾の兵隊さん」補償関連も法的には「軍人、軍属」。

    呉三連基金会には各種軍事用語事典なども送っている。一度くらいはそれを見たらどうか。見た上での質問であれば、何時でも応じる(但、広島自宅には文献がなく、推定や記憶に基づく回答となるが)。

    私の推定であるが、戦後出版された「日本昭和史読み物」では、同基金会「三田文庫」は台湾随一ではないか。少なくとも日本の地方都市の図書館よりも充実していると自負している。

  16. 三田裕次@広島 寫道:

    >読書態度はかなり「深刻」な問題
    この点について、付言する。最近は馬鹿馬鹿しいから止めたが、病気回復後(2003年以降)、呉三連基金会に送る本は、事前にザット目を通し、間違いなどがあれば、著者(或出版社)にメモを送っていた。我的本頁「台湾史もぐらたたき」はそれを整理(一部脚色)したもの。所謂「武士の情け」で個人名は秘しているが、2003年以降送付の書籍の相当部分には当該メモを付けている(為読者服務)。勿論、今まで誰からも質問無し。利用者皆無に近いからであろう。

    なお「間違いの」原因は読書量の圧倒的不足(若しくは読む本の恣意的選択)に起因、とにかく本を読もうともしない人達といくら議論しても無駄(時間之浪費)。

  17. 三田裕次@広島 寫道:

    >軍事用語事典

    例えば以下の事典は、現時点で入手可能な最も充実した本である(勿論不是「完璧」)

    0309日本陸海軍事典コンパクト版上下(2冊)/原剛+安岡昭男編著//新人物往来社/10,080

    この本も呉三連台湾史料基金会に送っている。なぜ利用しようともしないのか。参考までに編著者原剛氏と面識ある台湾の研究者もいる。

  18. 三田裕次@広島 寫道:

    >軍夫(続)

    1.簡単に説明すると、台湾軍の編成は「守備軍」であり、「外征軍」ではなく、「輜重部隊(輜重輸卒)」がいなかった。従って、大陸に出征する際、「輜重輸卒」を民間から募集する必要があった。これが「軍夫」である。中国語の表現では「軍隊所属之苦力」に近い。事変の頃、例えば台湾人通訳を「軍夫」と称した事例はないと思うが、如何か?

    2.まろやか老も、その業務内容からして、「軍夫」と称するのは妥当ではないと思うが、ご本人に確かめたか?

    3.近年、私が台湾人研究者に推奨(要求)している表現は「軍人、軍属(包括所謂軍夫)」である。これであれば、原則として「漏れ(もれ)」は無い。

  19. 林炳炎 寫道:

    黃美怡さん的發言讓三田裕次樣做精彩的補充, 讓我們對日本不了解的朋友有更深的認識, 由於知識是要累積的, 很高興看到三田樣如此努力的發言.

  20. 許進發 寫道:

    台南海軍航空隊

    ラバウル海軍航空隊,並非特定航空隊的專有名稱,而是泛指在ラバウル(Rabaul)地區出入的各種航空部隊的總稱。在該地曾經駐紮的海軍航空部隊,就有第204航空隊、第251航空隊、第253航空隊、第582航空隊、第702航空隊、第705航空隊、第751航空隊等等。前述航空部隊之中,值得一提且與台灣有因緣者,即是第251航空隊。

    日本海軍航空部隊在中國大陸戰事告一段落,且計畫在南洋地區進兵起見,遂在1941年10月1日設立一個新編制航空隊,名為「台南航空隊」,配備零式戰鬥機。在日本對美國宣告開戰不久後,1941年12月8日台南航空隊偕同其他戰鬥機部隊的零式戰鬥機,掩護陸基攻擊機大編隊,由台灣南部的機場起飛,大舉越過巴士海峽,攻擊菲律賓呂宋島的Iba、Clark、Del Carmen等地的美軍機場。連續數日的攻擊,造成美軍飛機的重大損失。爾後配合日軍的爪哇攻略戰,在1942年2月期間,又對爪哇和婆羅洲的Surabaya、Balikpapan等地展開攻擊。

    1942年4月由於New Guinea地區作戰的需求,台南航空隊遂進駐Rabaul地區,在Lae、Port Moresby等地大肆活躍。迄至1942年11月,由於嚴酷戰鬥環境導致的人員和飛機的消耗,台南航空隊在11月1日改稱第251航空隊不久後,即在11月中旬返回日本本土的豐橋機場,進行人員器材的補充和再訓練。1943年5月第251航空隊再度返回戰場,進駐Rabaul地區。由於美軍在所羅門群島(Solomon Islands)實施反攻,第251航空隊先是在Bougainville島上空,其次是在Rabaul地區上空,和美軍飛機展開激烈的空戰,並基於戰局瞬息萬變的需要,也展開對地攻擊的支援任務。在苛酷的連續歲月戰鬥中,人員和飛機又再度消耗。

    1944年2月中旬美國海軍航空母艦部隊猛烈攻擊日軍的前線補給基地Truk島,造成多數艦船的沈没,以及百餘架飛機的損失。美軍空襲的結果,使得Truk島喪失前線補給基地的功能,也造成新出廠的戰鬥機無法補充Rabaul地區航空部隊的飛機損耗。Rabaul地區的航空部隊由於無法補充飛機的損耗,於是在2月下旬將可用飛機全部後撤至Truk島。然而1944年4月底美國海軍航空母艦部隊又對Truk島的日軍設施展開空襲,日軍航空部隊又遭受嚴重打擊。1944年6月日本海軍在Mariana海戰慘遭戰敗,重建的航空母艦部隊遭受美國海軍航空母艦飛機的攻擊,幾乎損失殆盡。日本海軍在海戰後重新整理航空部隊,遂在1944年7月10日將名存實亡的第251航空隊裁撤。

    台南航空隊由於曾經擁有笹井醇一、坂井三郎、西澤廣義等空戰英雄(擊墜王/Ace),以及在Rabaul地區奮戰的故事,遂成為日本海軍最為有名的戰鬥機部隊。台南航空隊雖然只在台南地區活動兩月餘,但台南航空隊(第251航空隊)的故事,卻永遠不朽存在於太平洋戰爭(Pacific War)的歷史記錄。

  21. 葉雪淳 寫道:

      
      
      
    物凄いとかいう台風が来るとかで、
    けど、もう来るのを諦めた様子。
    で、悠悠としているわけであるが、
    嘘ついて暮らす気象台の連中、
    食いはぐれまいと、頑張っている・・・
      
      
      
       
    さて、軍属軍夫ものであるが――
       
    調去做軍属(kun shiok クン ショク)
    では、聞いて分かる者は一人も居ないでしょう。
       
    まろやかさんは、調去做軍夫(kun hu クン フウ)
    と言った、と推察します。
       
       
    昭和12年から台湾であまねく使われていた一般用語「軍夫(クンフウ)」が、
    戦後の厚生省や靖国神社資料などに「無い」ことは、明らかに「収録漏れ」。
       
    また、
    『日本陸海軍事典コンパクト版上下(2冊)/原剛+安岡昭男編著//新人物往来社』
    も、一般用語「軍夫(クンフウ)」を「収録漏れ」。
       
       
       
       
    ぐんぷ 【軍夫】
    軍隊に所属して雑役に従う人夫。
    [ 大辞林 ]
      
      
    ぐんぷ【軍夫】
    軍隊に属して雑役をする人。また、兵卒のこと。
    [ 大辞泉 ]
       
       
       
    なお、戦史物で、ここでも「軍夫」が出てきます。
      
        
    日本人の将校・下士官らのほかは、朝鮮人軍夫で構成され、
    たとえば第104中隊第2小隊をみると1944年9月1日現在で、
    現員、将校1、下士官6、兵7、軍属(朝鮮人軍夫)211、
    計225人となっている。
    戦闘部隊ではなく人夫集団であった。
       
    (「特設水上勤務第百四中隊第二小隊 陣中日誌」
    『本部町史 資料編1』1979年、1,1116~1,117頁)。
       
       
       
    台湾人に対する陸軍特別志願兵制度は1942年に実施されたが、
    1937年には台湾総督府が部隊内で雑役に従事する「軍夫」の募集を開始している。
    また中国戦線の拡大により翻訳の必要から多くの軍属が募集され福建語、広東語、
    北京語の通訳に当たった。
    戦時中は台湾の「軍夫」及び通訳の人数は軍機とされ、
    一般史料の中では明らかにされていない。
       
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
       
       
       
    ビアク支隊の人員約10,400名の構成は、歩兵第222連隊約3,500名、
    長谷川高射砲中隊約100名、後方部隊約3,700名、台湾『軍夫」と
    インドネシア兵補約3,000名であった。
       
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%82%AF%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
       
       
    など・・・
       
       
       
       
       

  22. 葉雪淳 寫道:

      
      
      
      
      
    ♪ 行くはツロギかモレスビか
         あなたの安否が気にかかる
      ほんとにほんとにご苦労ね・・・
      
      
         >陸基攻擊機=>陸上攻撃機
                 九七式陸上攻撃機(九七陸攻)・・・垂直尾翼2枚
                 一式陸上攻撃機 (一式陸攻)・・・垂直尾翼1枚
                       又名(万年筆型陸上攻撃機) 
      
      
      
      

  23. 三田裕次@広島 寫道:

    >軍夫

    私の祖父は貧困のため、明治時代年齢を偽って「軍夫」に志願した(我家的伝承、大概日露戦役)。

    (陸軍偕行社の文献を引き継いだ)靖国偕行文庫に昭和期の状況について調査を依頼し、そのメモは多分中央研究院台湾史研究所などに送付済み。

    それ以上は議論しても無駄(浪費時間)。

  24. 葉雪淳 寫道:

      
      
      
    台湾人に対する陸軍特別志願兵制度は1942年に実施されたが、
    1937年には台湾総督府が部隊内で雑役に従事する「軍夫」の募集を開始している。
    また中国戦線の拡大により翻訳の必要から多くの軍属が募集され福建語、広東語、
    北京語の通訳に当たった。
    戦時中は台湾の「軍夫」及び通訳の人数は軍機とされ、
    一般史料の中では明らかにされていない。
      
    <訂正>
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E4%BA%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B5
       
       
       

  25. 慶離 寫道:

    台南航空隊由於曾經擁有笹井醇一、坂井三郎、西澤廣義等空戰英雄(擊墜王/Ace)
    漫畫家-千葉徹彌-戰鬥飛行員*1-6冊全*就是畫這一段故事

  26. 三田裕次@広島 寫道:

    >軍属&軍夫
    以前葉先生経由送られて来た林&胡編集のパンフ(現物は東京にあるので正確なことは言えませんが)末尾に幾つかの団体名があったように記憶しています。そのうちの一つは「台湾籍日本軍人軍属・・・」の如き名称。私に言う前に、そちらの方に訂正を進言されては如何ですか。私が相手にしているのは、くまさんはっつあん(張三李四?)ではなく、学術論文及びそれに類する文章における表現。

    台湾人の高等文官林某氏(印尼の司政官)も軍夫ですか?「軍属」が通じなければ(日本語だから通じない場合も当然あるでしょう。因みに英語ではMilitary Civilianと称するよし)説明をすればよいこと。改善の余地はありますが、台湾大学歴史系の周大姐の台湾史の本はそうなっていたと記憶しています。私の祖父は正真正銘の「軍夫」(力仕事)に年齢を偽って(最低年齢未満なので数歳上の年齢にして)応募したようですが(結果については我が家には「伝承」は残っていません)。

    >日本陸海軍航空隊
    かなりの数量の書籍を呉三連基金会に送っています(台湾が関係するもの、台湾とは直接関係ないもの)。貴方が調べたいこと(目的)を連絡いただければ、記憶に基づいてある程度の紹介(助言)はできます。
    若し真面目に調べたいのであれば、以下宛直接連絡して下さい(因我不是電脳オタク)。
    [email protected]

  27. 葉雪淳 寫道:

      
      
      
      
      
    三田さんの台湾語勉強不足・・・

    台湾人が「クンショク(軍属)」
    と言われたとき、絶対と言って良いくらいに、
    この「ショク」は「廉い」としか耳に響きません。

    「クンショク」が耳に「軍属」と聞き取れる者は
    まず、台湾には居ないでしょう。

    もうひとつ・・・
    軍属と言うか、軍夫と言うかは、
    言う人の勝手にどうぞと思います。
      
      
      
      
      

  28. colobear 寫道:

    文中廖前輩所搭乘返台的 “熊野丸” 在以下的網站連結有詳細的歷史資料及性能諸元
    http://www.mdc.idv.tw/pwm/we_sp_kumanomaru.htm

  29. 訪客 寫道:

    進入colobearさん所貼超連結,讀到令人感動的文章,台灣人在想盡辦法把過去無法記述的戰爭經驗寫出來,相信廖來福樣看到也會感觸良多。

    謝謝colobearさん。

  30. 三田裕次@広島 寫道:

    台湾籍「軍人、軍属、軍夫」等に関する(現時点での)最終結論。

    台湾籍「軍人、軍属(包括所謂軍夫)」妥当。

    現在の日本の関連法規(弔慰金見舞金関連)や靖国神社の合祀名簿なども「軍人、軍属」となっており、「軍夫」は不見。台湾でどのように呼ぶかは台湾人の自由であるが、用語定義が確定するまでは、日本の法令等の用語を優先せざるを得ないであろう(そうしないと齟齬が生じる)。場合によっては「(日本)陸軍士官学校=軍官学校」の如く。

    <補足説明>
    今回確認した昭和29年刊行の本に祖父(明治12年-昭和27年没)のことが載っていた。その中で祖父は「(広島から)明治28年には台湾へ軍属で行きました。一年しんぼうして戻ったよ」と語っている。祖父は無学文盲で、所謂「苦力」として行ったに違いなく、当然「軍夫(ぐんぷ)」と言ったはずであるが(我家の伝承も「軍夫」)、当時の執筆者が昭和時代の正式用語「軍属」に書き換えた可能性大。

  31. 林炳炎代貼 寫道:

    一般的には(台湾籍)「軍人軍属(包括所謂軍夫)」の如き表現が妥当。
    注:若し「軍夫」と明記しなければ台湾社会では通じないのであれば。

    なお、日本の関連法令は「軍人軍属」の如き表現となっている。

    「軍人」は比較的簡単だが、「軍属」は多種多様、例如;

    1.呉平城『海軍軍医日記』
    この本に出て来る台湾人医師は不是「正規の軍医」。「軍属」或「視為軍属」、我没研究過だが、戦没者遺族に対しては日本政府から「弔慰金」が支払われていると了解。

    2.特別志願陸軍看護助手(所謂「看護助手」或「特志看護婦」)
    陸軍と雇用関係(直接の指揮命令系統下)にあったものと思われ、「軍属」と了解する。

    3.(日本軍)通訳
    在米台湾人某氏の兄は台湾南部の某中学卒、某氏が「兄は軍夫として海南島へ」と言うから、「等一下、中学卒で”軍夫(苦力)”とは信じられない。通訳とかではなかったのか」。回答は「通訳」。
    このようなケースに於いては「軍属(通訳)」の如き表現が妥当と教えておいた。

    4.高砂義勇隊は「軍属」、しかし、薫空挺隊隊員は「軍人」、中村輝夫さん(スニヨン)も「軍人」。
    ====

    要するに「軍属」には色んな職種がある。男性も女性もいる。学歴経歴もまちまち。現在の日本語で言うところの「出向や派遣」もある。これらは正式には「軍属」ではない場合もある。かなり詳しい人でも「理解不能」のケースもあります。

    台湾人に関しては(日本人に比し)多分比較的簡単でしょうが、余り「深入り」すべきではない。同時に不正確なことは言ってはいけない。

    三田裕次@広島 (版主代貼)

  32. 林炳炎代貼 寫道:

    日華平和条約は日中共同声明により失効。

    同条約第三条に双方の請求権は両国政府の特別取極の主題とする旨定められていたが、政府間協議の途も鎖された。

    昭和49年、インドネシアモロタイ島で台湾高砂族出身の元日本軍人中村輝夫さんが発見されたことにより、「元日本軍人軍属の台湾住民の戦死者遺族、戦傷者たちに対して根本的解決をはかることが必要」との声が日本国内で高まった。

    訴訟が行われたが、第一審(東京地方裁判所)原告敗訴、第二審(東京高等裁判所)でも原告敗訴となったが、裁判長は(40年の歳月が経過したいま、補償をいまだに放置している日本政府の責任を道義的観点から厳しく批判し)「国政関与者には、予測される外交上、財政上、法技術上の困難を超克し、早急にこの不利益を払拭し、国際信用を高めるよう尽力することが特に期待されていると特に付言、これを受けて同時並行的に行われていた立法措置(議員立法)が加速された。因みに最高裁でも本訴訟は原告敗訴。

    「台湾住民である戦没者等の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」(昭和62年法律第105号)が制定された訳であるが、有馬元治衆議院議員を中心とする日本側関係者の「事前の根回し」も効を奏してか、中国側からの目だった反対は無かった模様。

    その後「軍事郵便貯金未払い」(所謂「確定債務」)などの問題も発生したが、新たに法律を制定することは行われず、日本政府行政裁量で「17倍?」の支払いが行われた。

    因みに「日本側の請求権」は(以前は関係者の間で問題となっていたが)徐々に誰も言わなくなった(上記「弔慰金」の時は、日本側で日本側の請求権を絡めての議論は行わないことで確認していた模様)。

    三田裕次@広島 (版主代貼)

  33. 林炳炎代貼 寫道:

    <結論>
    1.「軍人」と「軍属」は(法令上の身分が)異なる。
    2.所謂「軍夫」は「軍属」の一部である。(昭和期に於いては)「軍夫」は通称であり、現行法令上は「軍属」。なお「軍属」の職種は多種多様。

    三田裕次@広島 (版主代貼)

  34. 陳凱劭 寫道:
    9旬阿公架網站 打開世界的窗

    2010-6-23 自由時報 中部新聞
    http://www.libertytimes.com.tw/2010/new/jun/23/today-center13.htm

    90歲豐原市阿公廖來福架設「古時記憶的旋律」網站,蒐集二次大戰前日本歌謠、分享讀易經心得,日本博士級網友看了專程來台造訪,電腦打開阿公與世界接軌的窗。(記者謝鳳秋攝)

    廖來福每天騎1小時自行車健身,7月9日還打算參加縣府舉辦的台中縣鐵馬文化環島宣傳車隊活動,活力十足。(記者謝鳳秋攝)

    〔記者謝鳳秋/豐原報導〕90歲豐原市阿公廖來福自架「古時記憶的旋律」網站,蒐集二次大戰前日本歌謠,將閱讀易經、天文地理等心得用日文寫出來在網站分享,日本博士級網友看了專程來台造訪,電腦打開阿公與世界接軌的窗。

    廖來福日治時代曾被徵召到南洋當軍伕,小學受的是日本教育,60歲從豐原菸廠化驗室退休,育有5男3女,他打趣地說,工作時需要試菸,每天「呷菸賺薪水」。

    分享蒐集的日治歌謠與自創曲

    921地震後,廖來福的孫子送他一本電腦入門書籍,他開始自己摸索學電腦及上網,遇到瓶頸就問孫子,10年來透過網路結交日本、中國的網友,還架設「古時記憶的旋律」網站,將早年蒐集的日治時代歌謠、校歌等放在網站,和日本年長網友分享屬於他們那個年代的歷史記憶。

    滿洲進行曲、戰時歌謠、台灣步兵第一聯隊歌等,彷彿重現二次大戰前的生活情景,常讓80多歲的老網友聽到感動地落淚。

    多才多藝的廖來福會拉二胡、小提琴,也會作曲,喜歡騎自行車,平時涉獵音樂、天文、地理、化學等領域文章,在網路上譜了300多首自創曲。

    日本博士級網友專程來訪

    廖來福也將「易經道源」翻譯成日文,和日本網友一起探討中國傳統哲學,分享大自然間陰陽盛衰順逆的消長,和宇宙、人間貪欲所形成的利害得失等,因而吸引日本博士級網友,專程搭機來台造訪他們心目中的「奇人」,「阿公」還表演小提琴、二胡演奏,讓日本網友驚艷不已。

    廖來福每天騎1小時自行車健身,7月9日還打算參加縣府舉辦的台中縣鐵馬文化環島宣傳車隊活動,活力十足。

  35. scl 寫道:

    如何上「古時記憶的旋律」網站瀏覽?

  36. 北投埔 寫道:

    古い記憶のメロデイ
    http://www.geocities.jp/abm168/

    在三田裕次BLOG上有超連結
    我很喜歡他收集的音樂
    請上網聽老歌

  37. scl 寫道:

    高雄中學校校歌
    作詞:不詳 作曲:不詳
    たいえいの水  めぐらすところ
    黒潮におう  ことぶきの
    山は常緑(ときわ)の  精をうけ
    水は清てつの  粋を汲む
    その名も  高雄鳳雛(ほうすう)の
    健児集(つど)えり  我等が母校
    高中  高中  譽あり
    昂たり高中

  38. 三田裕次 寫道:

    以下は正確な記述でしょう。

    http://www.pref.gunma.jp/02/d5610003.html

    台湾人が「愛用」する「軍伕」は軍属の第1項に該当、即ち、「陸海軍部内の有給の嘱託員、雇員、傭人、工員、鉱員などで、戦地等で勤務した者等」に該当するのでは。

    若しそうでなければ、「軍伕」は「特定弔慰金等」の対象にはならない事になります。

    厳密に言えば「鉱員など」の「など」、「戦地等」の「等」とは何を意味するかまで明らかにしなければいけませんが(これは時間の無駄)。

    「軍人+軍属=兵士」に至っては論外。

    僕はもう疲れました。余りにも「徒労」が多かった。

    台湾人が日本の法令や軍事用語等に疎いのはやむを得ざる事、それを正すのは我々日本人の責務と思って大量の昭和史「読み物」などを読みました。それが、呉三連基金会→政治大学台湾史研究所「三田文庫」。
    http://www.formosa.nccu.edu.tw/taibooks/

    呉三連基金会に送っていた「台湾関連書籍」&「三田文庫」のリストをザットでも見た「台湾業界」の人間はどれだけいるか・・・・。

    三田裕次

  39. 三田裕次 寫道:

    ++参考++
    現行法令上の「軍人・軍属」是
    http://www.pref.gunma.jp/02/d5610003.html
    這是簡単な説明、法令上は複雑難解。

    台湾籍軍人軍属是
    http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs63-144.htm
    注:特定弔慰金等関連
    ====
    這me複雑難解。
    所以、要写的話、越簡単越好。
    例如:「軍属」就好。通訳等等是「軍属」之職務種類之一。
    「軍伕不是軍属」、「通訳不是軍属」、「軍人+軍属=兵士」(注)等等是「乱講」之類。
    注:兵士=軍人(不包括軍属)。
    ====
    三田裕次

  40. 三田裕次 寫道:

    >特定弔慰金等

    関連法令は呉三連基金会に送ってある。いくら紹介しても誰も見ようともしなかった。

    激動する日台関係の回顧と展望 : 政治・立法・裁判 : 民主化に賭ける台湾レ
    ポート / 有馬元治著
    http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA64780683

    日本の大学図書館でも余りないような本まで丹念に収集して送った。

    三田裕次

    【版主註】三田裕次さま對「真理」的堅持是非常令人敬佩的,我的專長是科技領域,社會科學非我所專,雖然版主今年會出版一本匪情研究,但是為求清楚與簡單,只把它局限在林木順周邊,黨的部分就留給年輕朋友去努力。能夠把林木順建黨一事釐清,也算是後人必盡的任務吧。

  41. scl 寫道:

    高雄中學校~奧援歌-1~

    ~奧援歌-2~

  42. scl 寫道:

    http://tw.myblog.yahoo.com/sclchiche/article?mid=1435&prev=1445&next=1434&l=f&fid=58

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