川上浩二郎(1873.6.8-1933.3.29)と基隆港築港

本文發表於 2010 年 07 月 29 日 10:04

kawakami0031.jpg川上浩二郎1873.6.8生於新瀉縣古志郡東谷村。1895.7第一高等學校卒業,1898.7東京帝國大學工科大學土木工學科卒業,同月任農商務技手,1899.7任台灣總督府技師,1900.8臨時台灣基隆築港局技師,兼台灣總督府技師。

1901-12-26築港局技師川上浩二郎英領印度蘭領爪哇及歐米各國ヘ派遣、遊學,1903.12歸國。

1908.7臨時台灣總督府工事部技師,兼總督府技師。

1909.10臨時台灣總督府工事部基隆出張所長專任。1912得工學博士。

依據東京大學留存資料,博士學位論文題目《基隆港の岸壁を論ず》,共分5篇。

其中第二篇是有關調查工事及試驗工事,海水對水泥砂漿及混凝土的影響,詳述各種水泥砂漿實驗方法及其成績。經多方尋找,包括東京大學與日本國會圖書館都被我查詢過,東大留有論文摘要與評審文字。

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川上浩二郎與松本虎太(戴帽子)前後任基隆築港局長

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國會圖書館表示論文在關東大地震時燒失。依據《台灣日日新報》1912/7/14刊登學位授予式有他的名字,同月26、27日刊登接受訪問,談他的博士論文。  《台灣時報》40號刊登他在鐵道Hotel演講概要「研究事項の要領」,其中第二篇第一章「膠泥及混凝土に及ばす海水の影響」及第二章「基隆に於けろ各種膠泥の實驗」,前者有5節,後者有4節分別為:セメント、砂及砂入膠泥、火炭酸化鐵及其他の物混入せし膠泥、鐵及膠泥の固著力。很有趣的事,他在這2次的對媒體發言,大談基隆港泥土軟弱與潮汐的副振動,避開火山灰,顯示他對此興趣不大,所以無法證明他介入火山灰混凝土試驗。《台灣日日新報》1910/1/19第三版有他對火山灰用於築港的談話。

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 1916年3月20日出版《基隆築港誌》,表示基隆築港第一期及第二期工事完成。   1916年10月2日依願退官後,任博多灣築港株式會社專務取締役。

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《台灣日日新報》1933/03/31刊登『築基隆港 川上博士逝去』「工學博士川上浩二郎氏。由明治33年。凡17年間。專心籌築基隆港。成今日本島門戶。其功非淺。氏大正5年10月請退官。在東京。專設計博多灣之築港。以一月前罹病。至去28日午前1時。亡于東京田端自宅。享年61。」1933.3.29死亡後葬於東京多摩甲。

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根據總督府資料如下:

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川上浩二郎﹑新潟縣人   明治6年6月8日~昭和8年3月29日

1899年7月19日    任臺灣總督技師。1900年8月27日    任臨時臺灣基隆築港局技師兼臺灣總督府技師。1908年7月30日    任臨時臺灣工事部技師兼臺灣總督府技師。1909年10月23日   免兼官。1909年10月25日   臺灣總督府土木部技師。1911年10月16日   臺灣總督府工事部技師。1916年10月2日    依願免本官 。

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1896年3月制定基隆築港調查委員,委員長是海軍少將角田秀松,下有委員13名,除了9名軍人委員外,有土木監督署技師石黑五十二工學博士、航路標識管理所技師石橋絢彥工學博士、臨時土木部技師杉山輯吉、牧野實,屬員2名,有3個執行部門:台北事務所(庶務係、會計係、工務係)、基隆出張所(庶務係、會計係、工務係)、試驗所(社寮島、仙洞、牛稠港、八尺門)7月設置基隆築港調查事務所、台北出張所以及在社寮島、仙洞2個試驗所。

 

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1898年4月基隆築港調查事務調查設計及施工等一切事務歸財務局土木課主管,同年6月改由民政部土木課主管,土木課長先後由高津慎、長尾半平技師擔任,而基隆築港負責人是先後由十川嘉太郎、高橋辰次郎技師擔任。1900年8月臨時台灣基隆築港成立,局長後藤新平、技師長尾半平、工務課長高橋辰次郎技師。又從《基隆港築港沿革》1900年9月在基隆仙洞火號庄建築石造平階高14尺建坪130坪倉庫7棟,守衛室、醫務室、セメント試驗所、乾燥所等建坪431坪,這是基隆出張所在仙洞的配置。

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1908年7月臨時台灣工事部成立其築港課長高橋辰次郎、基隆支部長川上浩二郎技師,以後改基隆出張所仍由川上浩二郎擔任。1909年12月土木部成立取代工事部,設置土木部基隆出張所。1911年10月臨時台灣總督府工事部取代土木部,其他不變。

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民政長官後藤新平任基隆築港局長,就可以知道基隆築港的重要性。不知後藤還曾任其他這類職務否。

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浚渫船瑞芳號

總督府在1907年開始五年55萬元設立經費,成立總督府研究所,設有化學部及衛生部。部份建築竣工,1909年4月開始研究工作,首任所長由醫學校長高木友枝兼任。而在1903年4月之前,發現有零星的研究,比如1898年相川銀次郎的『セメント材料調查報告書』中就提到「基隆築港部在勤石橋工學博士在桃園作セメント材料調查…其資料如表,是築港部的秘密」。

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高砂公園より新店荷揚場に至る幅十間道路

石橋絢彥與廣井勇兩工學博士皆是日本明治第一代的セメント與混凝土專家。此外,參與基隆築港的工學博士尚有石黑五十二、中山秀三郎、川上浩二郎等人,應聘來台的外國專家有:John Michel、George Maclain、J.V. Morrison、John Ward等4人。但基隆築港工事參考用試驗在1903年4月開始研究,遠比總督府研究所早6年,除了試驗開始時間早外,基隆築港的混凝土試驗10年之規模是破天荒的。

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感謝在東京的川上昌明さん寄來他祖父的寫真及資料。

8 回應 針對 “川上浩二郎(1873.6.8-1933.3.29)と基隆港築港”

  1. scl 寫道:

    在林曙光之《打狗瑣譚》p95~p110達16頁之〈高雄築港事業〉長文,卻欠缺如版主本文所論述之屬於科技史範疇,殷望版主費神費力,使高雄築港技術史料完整陳現!

  2. 林炳炎 寫道:

    版主欠債太多, 要稍等等!!電力是守備範圍, 築港不是!!這篇是扮仙, 要為在本頁提到的那人物敲鑼打鼓用!!
    而這篇其實還沒有結束, 人間因緣啦, 等等!!!

  3. 林炳炎 寫道:

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    在東京的川上昌明さん用昂貴的郵資,寄來他媽媽川上敏子生前的出書,此書翻譯本在台灣出版,翻譯者羅華齡。用了些工夫,才確定此書的原名。

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    書名《こんな時どうしたら?セントポーリア》(此時,您該怎麼辦?非洲堇栽培指南)。《こんな時どうしたら?セントポーリア》1986年出版。翻譯本2000年出版。

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    川上敏子結婚前的名字是松本敏子,她的父親是松本虎太,有關松本虎太會分成2blog來書寫,一是築港,一是台電大甲溪之達見壩。

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    松本敏子1915年(大正4年)生於基隆港的「仙洞」公家宿舍,由於松本虎太熱愛園藝,所以受到感染。

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    其實川上敏子已經出現在本blog上,讓我非常驚訝,竟然前後築港的局長之子女結為姻親。

  4. 林炳炎 寫道:

    川上浩二郎在台灣日日新報的新聞,共61筆,依「標題」、「關鍵詞」、「日期」、「版次」排列,如果有人想讀新聞,可以想辦法,包括由版主剪報。

    1. 『陞轉彙誌』昨總督府報;覆審法院長水尾訓;加藤禮次郎;八田精一;川上正直;柴崎守雄;臺北警部長西美波;牧彥七山;川上浩二郎;金澤鬼三郎;田村武七;中田直;臺灣總督府法院判官柴崎守雄1899-11-02日刊 版次 03

    2. 『築港局職員の任命』總督府土木課長長尾半平氏;土木課技師高橋辰次郞氏;土木課技師川上浩二郞氏;土木課屬今井周三郞氏1900-08-29日刊 版次 02

    3. 『職員任命』基隆;總督府土木課長長尾半平氏;土木課技師高橋辰次郞氏;川上浩二郞氏;今井周三郞氏1900-08-30日刊 版次 03

    4. 『川上技師』築港局技師川上浩二郞氏1901-09-15日刊 版次 02

    5. 『訂正』築港局技師川上浩二郞氏1901-09-17日刊 版次 02

    6. 『浚渫船新竹號の試運轉後報』基隆築港局;技師高橋辰次郞川上浩二郞;高田商會支配人廣田理太郞氏;瑞芳號;仙洞海軍貯炭所;土砂投棄所1901-11-09日刊 版次 02

    7. 『川上築港局技師の海外派遣』臨時臺灣基隆築港局技師川上浩二郞氏1901-12-18日刊 版次 02

    8. 『叙任及び任命』大嶋警視總長;總督府技師川上浩二郞氏;總督府編輯官小川尚義;佐藤弘毅;和田貫一郞1901-12-19日刊 版次 02

    9. 『官塲兩誌』長谷川技師長;臨時臺灣基隆築港局技師川上浩二郞氏1901-12-19日刊 版次 03

    10. 『官塲三誌』總督府三好飜譯官;大島警視總長;陞叙正五位;總督府技師川上浩二郞氏叙正七位;總督府編輯官小川尚義佐藤弘毅及屬和田貫一郞;公學校教員檢定委員;陸軍三等監督大野賢一郞獸醫監原八百太郞步兵大尉小野政治1901-12-20日刊 版次 03

    11. 『川上技師の送別會』築港局;技師川上浩二郞氏1902-01-09日刊 版次 02

    12. 『川上技師の巡路』基隆築港局技師長川上浩二郞氏1902-01-17日刊 版次 02

    13. 『官塲彚報』總督府署理土木局長長尾半平氏;基隆築港局技師川上浩二郞氏;臺北醫院;公醫候補生;太田德二氏;文修氏;中山太一氏;久保安五郞氏;安田候補生;高田候補生1902-01-18日刊 版次 03

    14. 『基隆築港局彚聞 川上技師』川上浩二郞1902-10-05日刊 版次 02

    15. 『基隆築港局の近況』筒井技手主任;技師川上浩二郎1903-11-08日刊 版次 02

    16. 『基隆築港局近况』筒井技手主任;技師川上浩二郎1903-11-10日刊 版次 03

    17. 『川上技師』基隆築港局技師川上浩二郎氏1903-12-29日刊 版次 02

    18. 『官紳彚誌』乃木男爵北堂;三板橋墓前;橫澤秘書官;大島警視總長;東京高等師範學校敎授那珂博士;萬朝報曾我部巿太氏;土木局長長尾半平氏;基隆築港局技師川上浩二郎氏;基隆築港局技師山形要助氏;庶務課長今井團三郎氏1903-12-30日刊 版次 03

    19. 『官塲紀事』祝財務局長;鹿子木通信局長;基隆築港局技師川上浩二郎1904-03-04日刊 版次 03

    20. 『基隆築港局員の美擧』技師川上浩二郞氏;祝勝宴會;恤兵部に献金1905-03-18日刊 版次 05

    21. 『仙洞分敎室設立の■■』基隆小學校;川上浩二郎;羽鳥重郎;山口力1907-02-07日刊 版次 02 原件不清

    22. 『文官の昇位』小林丑三郎;川上浩二郎1907-11-28日刊 版次 02

    23. 『基隆の三計畫』委員川上浩二郎;村松一造;佐藤一景;建物會社;木村;武德會;武德殿;光尊寺1909-03-30日刊 版次 02

    24. 『督府技師免官』高橋辰次郎;川上浩二郎;山形要助;十川嘉太郎;大越大藏;庄野卷次1909-10-24日刊 版次 02

    25. 『天災豫報(一)作者 基隆 川上浩二郎』臺北測候所;低氣壓1911-09-27日刊 版次 02

    26. 『天災豫報(二)作者 基隆 川上浩二郎』臺北測候所;仙洞1911-09-28日刊 版次 02

    27. 『天災豫報(三)作者 基隆川上浩二郎』津浪;海嘯;仙洞;近藤測候所長;安平;打狗;東港;臺灣海峽1911-09-29日刊 版次 02

    28. 『天災豫報(四)作者 基隆川上浩二郎』洪水;地震1911-09-30日刊 版次 02

    29. 『基隆佛教同志會』地光尊寺;高橋行信師;加藤務;川上浩二郎
    關鍵詞 1912-06-15日刊 版次 07

    30. 『基隆の岸壁を論ず(上)』總督府技師川上浩二郎1912-07-26日刊 版次 03

    31. 『基隆遙拜式』木村久太郎;山田寅之助;川上浩二郎;築山揆一1912-09-01日刊 版次 01

    32. 『基隆遙拜式之準備』臺北;牧野司令官;三上支廳長;木村久太郎;山田寅之助;川上浩二郎;築山揆一1912-09-02日刊 版次 03

    33. 『基隆遙拜式次第』川上浩二郎;高柳元六郎;須藤潔;藤元右衞門;木村久太郎1912-09-13日刊 版次 05

    34. 『實業協會之講演會』代議士守屋此助氏;川上浩二郎;臺銀1912-12-08日刊 版次 06

    35. 『基隆港の將來及之が繁榮策 工學博士川上浩二郞氏』1914-05-14日刊 版次 10

    36. 『遙拜式彙報 基隆遙拜式場』木村組;田尚;川上浩二郞副委員長;三上喜十藏庶務掛長;木村久太郞祭式掛長;山田寅之助設備掛長;川上浩二郞警衞掛長;築山揆一1914-05-20日刊 版次 02

    37. 『遙拜彙登』嘉義公園;木村組;委員長川上浩二郞;副委員長三上喜十藏;庶務掛長木村久太郞;祭式掛長山田寅之助;設備掛長川上浩二郞;警衞掛長築山揆一1914-05-21日刊 版次 05

    38. 『基隆新廳長招侍會』加福臺北廳長;木村久太郞;川上浩二郞1914-07-22日刊 版次 02

    39. 『新廳長招待會』加福新任臺北廳長;木村久太郞;川上浩二郞1914-07-23日刊 版次 06

    40. 『各地御一年祭 基隆』遙拜式;俱樂部;川上浩二郎;三上喜千藏1915-04-10日刊 版次 02

    41. 『各地御周年祭 基隆』基隆小學校;委員長川上浩二郎;三上喜中藏1915-04-11日刊 版次 05

    42. 『督府技師敍勲』臺灣總督府臨時工事部工務課長;技師山形要助;技師川上浩二郎1915-08-09日刊 版次 03

    43. 『臺灣勸業共進會 基隆接待支部』協賛會;郵船會社;川上浩二郎氏;古田種次郎氏1916-03-30日刊 版次 07

    44. 『共進會彙報 基隆接待支部』協賛會;郵船會社;川上浩二郎氏;古田種次郎氏1916-03-31日刊 版次 05

    45. 『臺灣勸業共進會 基隆水族館(下) 基隆港頭の大偉觀 協賛計畫決定』川上浩二郎氏;公益社1916-03-31日刊 版次 07

    46. 『督府高官任免(卅一日東京發)』臺灣總督府臨時工事部技師川上浩二郎;柴沼榮作;臺灣總督府醫院醫長;澤田總五郎1916-04-01日刊 版次 02

    47. 『共進會彙報 基隆水族館(下)基隆港頭偉觀協賛計畫決定』川上浩二郎氏1916-04-01日刊 版次 06

    48. 『督府定期陞敘』基隆臨時工事部出張所長工學博士川上浩二郎氏;翻譯官關口長;通信技師杉山鈺太郎;女學校教諭脇野つい;通信事務官補瀧千代;法院檢察官長手島兵次郎1916-04-02日刊 版次 02

    49. 『督府高官任免(三十一日東京電)』臺灣總督府臨時工事部技師川上浩二郎;柴沼榮作;臺灣總督府醫院醫長澤田總五郎 1916-04-02日刊 版次 05

    50. 『督府定期陞敘』臺灣總督府;基隆臨時工事部出張所長工學博士川上浩二郎氏;翻譯官關口長;通信技師杉山鈺太郎;通信事務官補瀧千代多;法院檢察官長手島兵次郎1916-04-03日刊 版次 03

    51. 『督府官吏出張(二十日東京發)』臺灣總督府臨時工事部技師川上浩二郎氏;總督府技師中井宗三;八田與一 1916-04-22日刊 版次 03

    52. 『官吏奉委出洋(二十日東京發)』臺灣總督府臨時工事部技師川上浩二郎氏;總督府技師中井宗三;八田與一1916-04-23日刊 版次 05

    53. 『祖筵盛況』基隆築港所長工學博士川上浩二郎;木村久太郎;顏雲年;杉山少將;加福臺北廳長1916-07-23日刊 版次 06

    54. 『日日小筆』臺灣;氣候風土;專門家;醫學界;基隆築港;川上浩二郎氏1917-03-05日刊 版次 01

    55. 『基隆海水浴場 川上博士紀念事業』工學博士川上浩二郞氏;工事部技師1917-05-23日刊 版次 06

    56. 『紀念海水浴場 寄附金七千圓募集』元工事部技師工學博士川上浩二郎氏;基隆築港;高橋工事部長;角土木局長;臺北;新竹;臺中;嘉義;臺南1917-06-09日刊 版次 07

    57. 『關門海底鐵道』基隆築港;工學博士川上浩二郎;杉山茂丸;中村精七郎1917-11-04日刊 版次 02

    58. 『關門海底鐵道』工學博士川上浩二郎氏;基隆築港;杉山茂丸;中村精七郎1917-11-05日刊 版次 03

    59. 『新臺灣遊記(3)作者 田原天南』基隆名物;川上浩二郎博士;臺北;宮本學士;石阪莊作;吉田海軍中將;小野檢察官長;角電力專務;森孝三;赤石社長;高木電力社長;田總督;西門街;石原支配人;守屋善兵衞;龍匣口庄;總督府廳;相賀警務局長;末松內務局長;川崎殖產局長;東鄉調查課長;喜多祕書官;臺南新報;加藤醫院事務官;松井府視學;中野大稻埕女子公學校長;大熊和郎;武田警部1921-11-05日刊 版次 04

    60. 『基隆築港工事の思出 初めて軍艦對馬を入れた愉快さ 作者 工學博士 川上浩二郎氏談』總督府;第四岸壁;船宿町;築港工事反對運動;對馬棧橋1923-05-02日刊 版次 05

    61. 『築基隆港 川上博士逝去』工學博士川上浩二郎氏1933-03-31日刊 版次 08

  5. 林炳炎 寫道:

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    在大日本人名錄(Who’s who in Great Japan)發現川上浩二郎博士的資料
    由於資料從台電回到家, 有些資料要意外發現才有辦法展示!!

  6. masako 寫道:

    林先輩好

    那本羅華齡小姐翻譯川上敏子女士畢生最愛的非洲菫的書
    伊東女士有拿給我看過
    她還跟她先生去參加她姑媽(=川上敏子女士)的喪葬

  7. 田中 寫道:

    川上浩二郎氏((1873.6.8-1933.3.29)と基隆築港

    川上浩二郎氏は1873年6月8日に新潟県古志郡東谷村で生まれました。川上氏の経歴は次のとおりです。1895年7月第一高等学校卒業、1898年7月東京帝国大学工科学部土木工学科卒業、同じ月に農商務技手に就任、1899年7月台湾総督府技師、1900年8月臨時台湾基隆築港局技師兼台湾総督府技師。

    1901年12月26日台湾基隆築港局技師川上浩二郎氏はイギリスの領地インド、オランダの領地ジャワ島や欧米の各国へ派遣され、視察しました。そして、1903年12月に帰国しました。

    1908年7月臨時台湾総督府工事部技師と台湾総督府技師を兼務しました。

    1909年10月には臨時台湾総督府工事部基隆築港局出張所所長専任となり、1912年工科学部工学科博士号を得ました。
    東京大学の保管資料によれば、彼の博士論文のタイトルは《基隆港の岸壁を論ず》、全五編です。

    その中の第二編は工事調査や実験について、海水対泥水、砂利及びコンクリートの影響、各種の泥水、砂利実験方法と成果を詳細に記載した。著者は川上氏の論文を日本の国会図書館や東京大学の図書館にも問い合わせました。東京大学の所には川上氏の論文のダイジェストや評価文章が残っていることが分かりました。

    川上浩二郎氏を引継いで松本虎太氏(帽子をかぶっている)は台湾基隆築港局局長に就任。
     
    日本の国会図書館の館員は川上氏の論文が関東大地震により焼失したと伝えました。1912年7月14日の《台湾日日新報》記事により、博士号認定授与式に川上浩二郎氏の名前がありました。同月26日と27日に、彼は《台湾日日新報》の朝刊のなかでインタビューに応え、自身の博士論文について説明していた。《台湾時報》の40号には川上氏は鉄道ホテルで講演摘要「研究事項の要領」記事のなか、第二編の第一章には「膠泥及混凝土に及ばす海水の影響」及第二章「基隆に於ける各種膠泥の実験」があり、第一章には5節があり、第二章には4節を含む:セメント、砂及砂入膠泥、火炭酸化鉄及其他の物混入せし膠泥、鉄及膠泥の固着力。面白い事は、川上氏はその二回のインタビューで述べました。基隆港の当地土壌の軟らかさや潮汐の振幅について多く語り、火山灰についての話題を避けていた。これは、かれが火山灰について興味があまり無かったからである。従って彼は火山灰コンクリートの実験について証明することが出来ませんでした。1910年1月19日《台湾日日新報》の第三面には川上氏は基隆港建築に火山灰を使う話が載っていました。

    1916年3月20日出版した《基隆港築港誌》に、第一期及び第二期の基隆港工事完成したことが載っていました。 1916年10月2日川上氏本人の希望により退官しました。そして、博多湾築港株式会社専務取締役に就任しました。

    台湾総督府資料には、下記のように記載されていました。

    【Blogger のノーテ】田中さんは山口県の友です。川上浩二郎氏の日訳文。

  8. 田中 寫道:

    川上浩二郎氏 (新潟県人 明治6年6月8日~昭和8年3月29日)

    川上氏の経歴は次のとおりです。1899年7月19日から台湾総督府技師就任。1900年8月27日 から臨時台湾基隆築港局技師兼台湾総督府技師就任。1908年7月30日から臨時台湾工事部技師兼台湾総督府技師就任。1909年10月23日から台湾総督府技師官の兼務を解任。1909年10月25日から台湾総督府土木部技師就任。1911年10月16日から台湾総督府工事部技師就任。1916年10月2日から本人の希望により退官。

    1896年3月台湾基隆築港調査委員会制定、委員会会長は海軍少将角田秀松氏、委員会会員は13名、その中の9名の軍人委員を除いて、土木監督署技師石黒五十二工学博士、航路標識管理所技師石橋絢彦工学博士、臨時土木部技師杉山輯吉氏、牧野實氏、属員2名、3執行部門:台北事務所(庶務係、会計係、工務係)、基隆出張所(庶務係、会計係、工務係)、試験所(社寮島、仙洞、牛稠港、八尺門)7月設置台湾基隆築港調査事務所、台北出張所及び社寮島、仙洞2個試験所が設置された。

    1898年4月財務局土木課は主に管理台湾基隆築港の事務調査設計や工事等。同年6月民政部土木課に業務を移し、土木課の課長は高津慎氏、次に長尾半平技師でした。台湾基隆築港の責任人は十川嘉太郎氏、次に高橋辰次郎技師でした。1900年8月臨時台湾基隆築港局成立し、局長は後藤新平氏、技師長尾半平氏、工務課長高橋辰次郎技師でした。 また《基隆港築港沿革》により、1900年9月基隆の仙洞火号庄には石造平屋高14尺、建坪130坪、倉庫7棟、守衛室、医務室、セメント試験所、乾燥所等総建坪431 坪。これは基隆出張所の仙洞の配置でした。

    1908年7月臨時台湾工事部成立し、台湾基隆築港の課長は高橋辰次郎氏、基隆支部長川上浩二郎技師でした。以後その支部は台湾基隆築港出張所に変更されました。そして、川上浩二郎氏は所長に就任しました。1909年12月工事部の代わりに土木部が成立され、設置土木部基隆出張所となりました。1911年10月土木部の代わりに臨時台湾総督府工事部成立されましたが、ほかは変わりませんでした。

    民政長官後藤新平氏は基隆築港局局長に就任、基隆築港の重要性を示しました。その後、後藤氏は他にそのような重要な仕事はおそらくないのではないかと考えたと著者は推測しっています。

    浚渫船瑞芳号
    総督府1907年より五年55万元の設立経費を始め、総督府研究所を作り、その中は化学部と衛生部です。部分的に完成し、1909年4月研究を始め、初代の研究所所長は医学部校長高木友枝氏が兼任しました。1903年4月以前、部分的に研究を発表しました。例えば、1898年に相川銀次郎氏の『セメント材料調查報告書』中に述べた「基隆築港部在勤石橋工学博士桃園でセメント材料を調查…その資料は表に記載され、築港部の秘密です」。

    高砂公園より新店荷揚場に至る幅十間道路
    石橋絢彦氏と廣井勇氏の両工学博士は日本明治第一代のセメントやコンクリート専門家でした。さらに、基隆築港の工事参与関連の工学博士は石黒五十二氏、中山秀三郎氏、川上浩二郎氏など。海外から採用した専門家は:John Michel氏、George Maclain氏、J.V. Morrison氏、John Ward氏など4人でした。しかし、基隆築港工事参考用試験は1903年4月研究を始め、さらに、総督府研究所成立より6年早い。そのため、基隆築港のコンクリート試験は10年間の規模は破天荒的でした。

    東京の川上昌明さんより彼の祖父の写真や資料を頂だいたことにお礼を申し上けます。

    【Blogger のノーテ】田中さんは山口県の友です。日台交流的熱心者,透過日文讓日本人了解台灣歷史的片刻,增加台日之間的交流,這是本blog努力目標,也讓大家知道,一些日本人在台灣努力建設,成了成就台灣的基礎建設,也為自己贏得博士學位,算是台灣培養出來的博士,他後繼者松本虎太技師,最後還成為台電社長。

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